スポンサーリンク
天国の扉

美術教師の羞恥デッサン84(藍里編9)

 8月中旬のある日の午前中、藍里は藪下に呼び出されていつもの教室にいた。

 前回のデッサン終了時に「デッサンは今回のみで終了」というようなことを言っていたにも関わらず、藪下が再度呼び出した格好だ。

 もちろん、藍里も拒否したい気持ちは山々だったが、狡猾な藪下は「前回のバイト代を手渡しで渡したい。領収書に署名も欲しいから、一度会いたい」と言って呼び出しに成功したのだった。

 そして、つい今しがた、バイト代の手渡しと領収書への署名が終了したところだ。

 藍里は当然ながら、「さて帰ろうか」と思い、ゆっくりと立ち上がろうとする。

 しかし、そこで藪下が「ああ、もうちょっとだけ話がある」と言って、呼び止めた。

 藍里は内心ウンザリしながらも、担任教諭相手に反抗的な態度をとるわけにもいかず、「話だけなら」と思いながら再び着席する。

 前回の経験から、危険な申し出をされる予想がついている藍里は、「絶対に話を聞くだけにしないと」と強く強く心に決めていた。

 藍里の予想に違(たが)わず、藪下は悪びれる様子もなく説得を開始する。

「話っていうのは他でもない。もう一度だけ、モデルになってくれないだろうか。やはり、どうしても展覧会に出品したいんだ」

「え、でも……」

 藍里の反論の声に被せるように、藪下はまくしたてる。

「今度の展覧会では、本気で入選を目指しているんだ。そのためには、どうしてもモデルは春日井でないとダメだと私は分かった。他のモデルでは、私の理想を体現できないんだ。どうか私に、もう一度だけチャンスをくれないか。もちろん、条件面は出来る限りこちらも努力させてもらう。次回、1回だけで10万ではどうだ?」

 破格の申し出に一瞬だけ藍里の心は揺れたが、前回の苦い記憶がすぐに頭によぎる。

 あれほど卑猥な行為をされるならば、金額など「20万でも安い」というような気が藍里にはしてきた。

 もうあんな目に遭うのは二度と御免なのだ。

 藍里は覚悟を決めて言った。

「せっかくの申し出ですが、ちょっとお引き受けしかねます。前回のようなことがあっては……」

「今回は、『私は春日井に指一本触れません』という誓約書を書かせてもらおう。その上で、バイト代も15万出すことにする。どうだろうか」

「え?」

 藍里の心は大きく揺れ始めた。

 そんな誓約書を事前に書いてもらうならば、前回のようなことは起こり得ないように藍里には思える。

 その上、バイト代もこれほどまで弾んでもらえるのだ。

 藍里が迷い始めたことに気づいたのか、藪下はすぐさま攻勢をかけていく。

「先ほども言ったとおり、今回の展覧会に賭けてるんだ。出品の期限まで、残された時間はあまり多くない。どうか、私にもう一度だけチャンスをくれないだろうか」

 藪下は深々と頭を下げた。

 人に騙されやすい藍里といえど、さすがにこの薮下の態度はあくまでもポーズに過ぎないかもしれないとは薄々感づいている。

 しかし、元来の人の良さと、頼まれたら断れない性格、そして魅力的な報酬などが藍里の心を揺さぶり続けていた。

 散々迷った末に、藍里が出した答えは―――。

「分かりました。でも、誓約書は事前にきちんとお願いします」

「もちろんだとも。今日、全ての書類を持参している。春日井なら、きっと引き受けてくれると信じていたよ。本当にありがとう。恩に着る」

「いえいえ、そんな……」

 藪下は早速、傍らに置いたバッグから、幾つか書類を取り出し始める。

 こうして、藍里が再度モデルに挑戦することが決定してしまった。