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天国の扉

美術教師の羞恥デッサン62(藍里編3)

~数日後~

 午後2時45分、藪下は相変わらず教室にて着席していた。

 つい今しがた、面談を終えた朋香を見送り、再び一人っきりになったところだ。

 そして、青いファイルをゆっくり開く薮下。

 このあと午後3時より面談予定である藍里の成績等が記された書類を見て、藪下はボソッと独り言を言った。

「いよいよ最後、春日井か……。入学当初は、地味で目立たない子だったのにな……。突然、垢抜けやがって……」

 藪下が言うとおり、入学したばかりの頃の藍里は、クラスでもほとんど目立たない子だった。

 メガネをかけていたことも大きな原因ではあったが、それよりも何よりも、髪型が野暮ったかったのが最大の原因だろう。

 ところが約3ヵ月後、光範に告白されてOKし、付き合うようになった途端、藍里は変わった。

 メガネをやめてコンタクトレンズにしたり、髪型に気を遣うようになったり、スカートを短めにしたりしたのだ。

 だが、変わったのは外見だけではない。

 それまでは大人しすぎるくらい静かで、喋らない子だったのが、ある程度積極的に発言するようになったのだ。

 彼氏である光範の影響が大きかったことは間違いない。

 光範も決して「クラスの人気者」というほど人望が厚いわけではないのだが、真面目で誠実な性格にも関わらず、比較的コミュニケーション能力が高いのだ。

 藪下は、藍里の変貌に驚きつつも、当時はその原因について全く知らなかった。

 しかし、二人が交際を開始してから数ヵ月後の10月、風の噂によって聞き知ることに。

 もっとも、「あまり叱らない、心優しい教師」という定評のある藪下は、知ったところで何らアクションは起こさなかったが。

 そもそも、この自由な校風の学校では、「交際」自体は校則で禁止を明記されてなかったので、何ら問題はなかったといえる。

 藪下は回想を終えると、ファイルを閉じて腕時計を見た。

 いつしか、時刻は2時55分になっている。

 すると、ノックの音がしたかと思うと、次の瞬間には「失礼します」という声とともにドアが開かれた。

 姿を見せたのは藍里だ。

 藪下が「春日井か。休みのところ悪いな」と言ってきたので、藍里は「いえいえ、とんでもないです」と言葉を返した後、ドアを閉めた。

 そして、藪下の指示を受けた藍里は、すたすたと窓際まで歩いていくと、藪下の真向かいにある例の席に腰掛ける。

 それから例によって、形式ばかりの面談を数分程度行い、終えてから藪下が言った。

「面談は以上だ。この程度のことで呼び出して申し訳なかったな。ところで、無理を承知で、話だけでも聞いてほしいことがあるんだが、20分程度、時間をもらえるか?」

「ええ、大丈夫です。何でしょうか?」

 藪下に対して不信感も嫌悪感も抱いていない藍里は、きょとんとしながらも聞き返す。

 藪下は一気に本題へと切り込んでいった。

「私は趣味で絵を描いている、いわゆるアマチュア画家なんだが……今度の展覧会に出品する絵のモデルがまだ決まっていなくてな」

 そこでいったん言葉を切る薮下。

 藍里は心の中で、「藪下先生は美術の先生だし、美術部の顧問もなさっているから、その趣味はあまり意外じゃないかも。きっと上手なんだろうなぁ。で、モデルって、まさか私にお誘いを? 私はそんなにスタイルが良いほうでもないし、まさかね」と呟きつつ、言葉の続きを待つ。

 藪下は一つ咳払いをしてから続けた。

「1日1時間ずつ、合計3日間だけでいいので、春日井にモデルをお願いできないか? バイト代は20万円支給しよう」

「ええっ?!」

 誘われたこと自体と、その破格の報酬に二重に驚き、目を丸くする藍里。

 すぐさま、藍里の胸中に甦ってきた言葉があった。

 それは先日、姉たちが口にした言葉、「美味しい話には裏がある」だ。

 思わず身構えてしまう藍里に向かって、藪下がさらに言った。

「バイト代が高額なことで驚いたかもしれないが、モデルの条件として、18歳以上であることと、体型がある程度スレンダーであることなど細かいことを求めているので、必然的にこうなるんだ。あと、どうしてもヌードになることに抵抗がある人もいるので、その辺も配慮してのことだ」

「ヌード?!」

 勝手に「着衣モデル」だと勘違いしていた藍里は、さらに驚いた。

 しかし、藪下は涼しい表情で、畳み掛けるように言う。

「もちろん、春日井のそのリアクションは理解できるが、あくまでも芸術のためのことなので、こちらとしては決してやましい思いはないからな。それに、ポーズをとってもらう場所は私の部屋でだけだ。なので、室内にはモデルさんの他には、私以外誰もいない環境だ。どうだろう? やってもらえないか?」

 依然として、藍里の脳裏には姉たちの言葉が渦巻いている。

 そして、「ヌードモデル」だと知った途端、その上さらに光範の顔が、藍里の頭の中に浮かんできた。

 報酬に心惹かれながらも、恋人である光範以外の男性の前で裸になりたくない藍里はすぐさま答える。

「私にはその……思いを寄せている方がいますし……大変残念なのですが……」

「そこを何とか、お願いできないだろうか? 私には他にアテがないので、春日井に断られてしまうともう、今回の展覧会への出品は諦めざるを得なくなるんだ。報酬はもう少し上乗せしてもいいし、休憩時間も多めにとることを約束する!」

 こう言うと、藍里に向かって深々と頭を下げる薮下。

 藍里は、「頼まれると断りづらい」という、一番上の姉である朱里と同じ弱点を持っており、これにはほとほと困り果ててしまう。

 ある程度、尊敬の眼差しを向けている相手である薮下から、こうして直々に誘いを受けた上に、頭まで下げられたのだ。

 葛藤する藍里に向かって、藪下が言葉を継いだ。

「何なら、まず初回だけでもお願いできないだろうか? 初回を終えた時点で、8万円を支給するから。その上で、『やっぱり無理』と言うのであれば、辞めてもらっても構わない。続けてもらえるなら、残り2回のモデルをしてもらい、最後に10万円を支払うことにする。さらに、まずは頭金として、この場で2万円を手渡ししようと思っている。何とか……お願いできないだろうか?」

 藪下はバッグから封筒を取り出すと、藍里の目の前に差し出しながら、ますます深く頭を下げる。

 この言動を受け、藍里の心に浮かんだのは「おっしゃるとおり、初回だけ受けてみようかな。その時点で、この頭金を含めて10万円もの大金を頂戴できるんだから。しかも、休憩時間があるとおっしゃっているし、実質は1時間以内でそれだけの大金を稼げるわけだし」という考えだった。

 するともう、藍里の心はググッと、「承諾」のほうへと傾いていく。

 もちろん、光範に対する申し訳ない気持ちもあったのだが、藍里の心の中では「藪下先生は芸術家だから、きっと私のヌードもモノのようにしか思われないはず。お医者様に裸を見せるのと同じことだよね、多分。もし光範君に知られちゃっても、きっと分かってくれるはず」という気持ちのほうが大きくなった。

 藍里はついに断りきれなくなって、ボソボソ小声で言う。

「えっと……じゃあ、お言葉に甘えまして……まず初回だけ……。でも、ホントにこんな『お試し』みたいな形なのに、そんな大金を受け取っても問題ないんでしょうか?」

「もちろん、何ら問題はない。実際に1回やってみて、続けられそうなら残り2回もお願いしたい。では、引き受けてくれるか?」

「は、はい……」

 好条件に屈した形の藍里は、光範の顔を思い浮かべては、罪悪感に駆られてしまう。

 いくら「きっと分かってもらえるだろう」とは思っていても、光範が嫌な気持ちになる可能性があるということは、藍里にも分かっていたので。

 しかし、既に承諾した後なので、もう引き返すことはできない。

 それから藪下はいつものように、詳細についての説明を行った。